「バレなければ何をやってもいいと感じるようになった」
少女誘拐監禁事件における寺内樺風被告の証言にこの言葉が出てきています。
いじめられた過去があり、その時「バレなければ何をやってもいい」という気持ちになった
との話です。
犯行については一切情状酌量の余地はなく、反省の態度も薄いと取られるため、減刑の余地はないと思われます。
しかしながら一方でこの手の犯罪心理は誰にでも起こり得る形のものであることはよく知っておくべきです。
題名の「教育の失敗」は、家庭の教育のみならず、社会における教育の失敗(無関心)が引き起こし、その被害者としての犯罪者が生産される要因となります。
精神異常でなく、明らかな社会的な虐待痕
精神異常者だから犯罪を起こす、という理論は、政治や行政、教育機関の建前のために使われることがほとんどです。
今回も、被告に見られるこの社会的な虐待痕を、社会や教育の責任にさせずに、減刑を勝ち取るという弁護側の最も効率的な弁護方法のための建前にすぎないと考えています。
では何が虐待痕なのか。
まさしく「バレなければ何をしてもいい」という概念です。
これは元々倫理観が正常だった人間が強いストレスによりねじ曲がった際に陥りやすい心境です。
わかりやすい例えは、
銃の所持を良しとしない人が、他人の銃によって傷を負ったり家族を失う自体になり、犯人が捕まらなかった。その結果その人は自衛のために銃を所持し、危険を感じた際に躊躇なく発砲するようになった。
ということです。
このたとえは非常に極端な話ですが、日本社会ではこの現象が普通に起きていることを認識しなければなりません。
今回のこの事件に当てはめれば、
いじめを行った人間は何も咎められること無く、また、いじめを受けた人間はその状態のまま、倫理観を正常に戻すための、満足な教育が、家庭・社会において何ら行われることがなかった。
と言う形になるかと思います。
子供自身からのシグナルや、それを受け取った際の大人の対応、それらが著しく欠けた際に、最も歪んでいくのは子ども自身の倫理観、共感性、社会的立ち位置の理解です。
その3つが正常に働かなくなると、自分が見てきたもの、つまりは、「いじめる人間、いじめる人間を容認する人間、事なかれ主義の他人」と同じ行動を行うことが有利だと感じてしまうようになります。
この被告の思考過程(推測)
公判の途中のため、憶測にしかなりませんが、犯行に至るまでの動機と犯行途中の思考について考えてみます。
・いじめを受け、それを訴えるも、何もなかったことにされる
→いじめ加害者の暴力、守るべき立場の人間の事なかれ主義を目の当たりにする
・有名進学校で自身の評価の低さを目の当たりにし、いじめの原因をそこに見出す
→社会的に価値の低い人間だからいじめを受け、それをなかった事にされたと感じる
・自分の存在意義に疑問を感じ、精神的・人間欠陥があるのではないかと疑う
→成績などの数字以外に自分を評価する基準を見出したいと考える
・自分と似た境遇に晒されたら、社会と切り離された人間がどのような精神状態になるのか
→自分の精神的・人間的欠陥が環境によって作られたものなのか、それとも自身の本質なのかを確かめたい、自分は環境によって捻じ曲げられたと思いたい
・犯行の途中でもそれを維持し続けたのは、それを維持しなければ自分への評価が維持できず、元々ある倫理観に押しつぶされるため
→洗脳によりおかしくなっていく、少女を見て、自分の不幸な境遇と重ねることで、自身の本質は異常ではないことを確かめている
・犯行が最終的に発覚してしまう事態に陥り、その結果、自身への評価の崩壊と倫理観に押しつぶされ、自殺を図る
→死にきれず自ら通報する形となり裁判という形になるも、上記思考過程を長らく続けていたため、「自分が悪いのではない、社会が自分にそうさせた」という感覚が強く、法廷でもそのような発言が顕著に現れる事態となる
上記の長きに渡る思考過程により、現在に至っていると考えます。
最も残酷なのは、その思考過程、自分の本質を求める上で、犯行が何の証明にもなっておらず、ただ単に非情な不幸を生み出し、継続させたに過ぎないという点で、事件関係者の誰の救いにもならなかったという点です。
私の考えでは、被告の精神は正常です。しかしながら、長きに渡り、矯正される機会のなかった被告の社会や、犯罪に対する価値観・考え方は異常となっています。
精神の異常であれば、比較的治療の方法はありますが、価値観・考え方の異常となると、私の経験上、その価値観が形成された年数と同等またはそれ以上の時間が必要です。
失われた、「良い大人の背中を見る時間」を大人大人になってから取り戻すことは本当に大変で、長い時間がかかります。これは単なる懲罰刑という形では回復することのない人の闇です。
犯罪者を量産する社会の闇
今回の事件、これが怒ったのはもちろん被告の身勝手な行動によるところが90%以上であると思います。
しかしながら、こういった犯罪は被告の背景にいる人間にも要因があることを忘れてはいけません。
いじめを行ったものはその暴力をいじめられた側に蓄積させていることを、
それを見て見ぬふりをしたものはその暴力を容認したことを、
いじめをなかった事にする大人、正しい対処法を教えられなかった大人は社会のあるべき倫理観を示せなかったということを、
これら3つの子供の非行を止めるのに必要なストッパーが全く働かなかった、そのために犯罪者が発生するということをよく理解しておくべきです。
要するにこれら3つを行う人間は犯罪者生みの・育ての親ということになります。
このブログでのテーマ、「自衛」のためには関わらない、が正解ではありますが、その選択肢でさえも犯罪者生産の片棒を担ぐという非情な状況を作ります。
いかにいじめを行う人間が最も迷惑を作り出すか、よく心に留めておくべきです。
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